そんなにプライベートを犠牲にして大丈夫?

最近読んだソフトウェアエンジニアのキャリアの話が、みんなプライベートの時間も勉強しなきゃダメだという論調で、ちょっと私は疲れている。

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曰く環境変化の激しいWeb系エンジニアは、プライベートを犠牲にして勉強しなければ最先端にはいられない。高給取りにはなれない。わりとみんな信じていることのように聞こえる。しかし本当だろうか。犠牲にするって、どのくらい犠牲にすればいいんだろう? 犠牲と比例して、技術力が伸びたり、給与が増えたりするんだろうか?

あっという間に知識が陳腐化するという仮定においては、時間の自由が大きい若い人ほど先端の勉強に時間を割くことができて、もっとも有能になりやすい。実際若くて有能な人は増えているように思う。それでも、オッサンたちがマネージャーにならず、第一線で働くことは可能なんだろうか?

ここで言うオッサンというのは30台前半のことで、まだまだ若手と言われてもおかしくない業界もたくさんある。そんな人々をオッサンと呼ぶのは正しいのだろうか?

Web業界で働いて、そしてちょっと離れたところから見るようになって、ずっとそんな事を考えている。子供が2歳になって、たくさん一緒に遊べるようになったので、もはやプライベートは犠牲にしたくないというのもある。

だから、私は、そんなに学習のためにプライベートを犠牲にするのは正しくないと言いたい。

例えば、プライベートが犠牲になるのではなくて、仕事が犠牲になるべきなんじゃないか?エンジニアが成長できないような仕事が、自動化もされずに残っている方がおかしい。普段、普通に働いて、家庭を大切にしていても、世の中に胸を張れるだけ成長できる仕事でなくてはいけない。あるいは仕事なんて17時には終わって、帰って勉強できるような余裕がなくてはいけないのでは?

ググっても答えが出てこないような仕事をしている時、人は確実に成長していると私は思う。学術論文を読んだり、新しい実装方法や、手法を試している時、コモディティでは無い知識が身について、あなたの市場価値は生まれているはずだ。 毎晩遅くまで働いているのに、もっと勉強しなきゃと神経をすり減らすのは終わりになったらいいなと私は思う。

はてなで働いていた時、周りのエンジニアがとても凄い人々に思えて、どうしたらそうなれるんだろうと思って、勉強しなきゃいけないという強迫観念にも似た何かに取り憑かれていた。 ほとんど後悔の無い人生だけれど、唯一後悔しているのは、妻との京都での新婚生活をもっと堪能しておけばよかった。という事だ。勉強しなきゃいけないと思いつめても、大して成果が上がらないなら、もっと妻と京都観光すればよかった。毎週末でも行くべきところは沢山あったと今は思える。週末動けなくなるほど勉強したり、仕事をしすぎる必要はない。

今はまた平日は忙しい暮らしをしているけれど、土日は完全に家族の時間にできているし、テレビゲームをしていて罪悪感を感じる事もなくなった。自分の成長を疑うこともないし、仕事も楽しい。そして何より、家族で過ごしている時間が幸福である。

もう少し、Web業界にワークライフバランスが普及しますように。